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祖師像は一般に座像や倚像が多いが、まれに遊行像がある。その代表として六波羅蜜寺の空也上人像を挙げることができる。裾が脛までの短い皮衣を纏い、右手に撞木をもって、首から提げた鉦架に懸けた鉦鼓を打ち鳴らし、念仏を称えながら、鹿杖をつき、左足を一歩前に踏み出している。行脚で鍛えた足の脛の筋肉は張り、足の甲の血管は浮き出し、破鞋からはみ出した足の指は大地を掴むようにはみ出し、力強い。
また、空也上人は力を込めて「南無阿弥陀仏」を称えているのを表しているかのように、顎を突き出して伸ばしたその首には喉ぼとけが強く隆起し、頬から口にかけて深い皺が刻まれている。死力を尽くして一切を捨て「南無阿弥陀仏」を称えているかのような表情である。

一遍上人によれば、一切の事を捨て名号を称え、名号に帰入することで、その名号において阿弥陀仏の来迎に預かり、まのあたりに阿弥陀仏を見ることができる。一遍上人は、まのあたりに仏を見ること、すなわち「見仏」について次のように語っている。「念仏三昧といふ事。三昧といふは見仏の義なり。常の義には、定機は現身見仏、散機は臨終見仏する故に、三昧と名づくと云云。此義しからず。此見仏はみな観仏三昧の分なり。今の念仏三昧といふは、無始本有常住不滅の仏体なれば、名号即これ真実の見仏、真の三昧なり。故に念仏を王三昧といふなり」(「門人伝説」34、「播州法語集」14)と。定機とは心を凝らして禅定観法を能くする者、散機とは心が散乱し、禅定観法ができない者のことで、よくある解釈では、定機は現世で生身のままで観法をもって仏を見ることができ、散機は断悪修善によって臨終の時になってやっと仏を見ることができるとされるが、一遍上人は観法をもって仏を見たとしても、断悪修善をもって臨終の際に仏を見たとしても、ともに「観仏」であって。真の見仏ではないという。身を捨て、心を尽くして名号を称えることによって達する「念仏三昧」の境地において真に仏に見えることができる。空也上人の言う「声に順つて仏を見る」である





六波羅蜜寺の空也上人像はまさに「念仏三昧」の境地で来迎した六体の「南無阿弥陀仏」の仏を「念仏三昧」の境地で見ているかのような表情である。頬から口にかけての筋肉の筋は張って、力を込めて念仏を称えているように見える。他方その口から出てきた「南無阿弥陀仏」の仏を見ているに空也上人の目からは力が抜けて陶酔しているかのようにみえる。また膝から下の剥きだした足は力強く一歩前に踏み出しているが、腰から肩にかけて力が抜けて、来迎した仏の方に少し前かがみになっているようにみえる。六波羅蜜寺の空也上人像は 力を込めて一切を捨て一声「南無阿弥陀仏」と称えて「念仏三昧」のエクスタシーの状態に入る、その一瞬の脱自を見事に表現しているといえよう。この念仏三昧の境地を踊躍の形に示したのが、空也上人が始行したといわれる「踊り念仏」であった


「念仏三昧」の空也