
by 圓増治之

中里介山は『大菩薩峠』の第二巻のあとがきに、「作者(中里介山)は遊戯といふことを大乗の極と信じ、すべての宗教もーーー道徳も、芸術も、此処へ来なければ徹底したものと思ふことが出来ないと信じています」、と述べている。然り。私も「大乗遊戯」の境に参入できなければ、哲学も宗教も徹底したものとおもうことができません。しかし、中里介山の戯作『大菩薩峠』は果たして読者を「大乗遊戯」の境に導くことができたでしょうか。否。「勧善懲悪」を「宇宙の法則」と断言し、それに則る限り、その戯作は、善悪の彼岸、恩讐の彼方での遊戯三昧という「大乗遊戯」を展開することはできない。『大菩薩峠』の主人公机竜之介が無目的に人を斬るニヒリストであるなら、その竜之介に敵対する宇津木兵馬もまたその竜之介を斬ること以外は何の人生の目的を持たないニヒリストである。『大菩薩峠』では、この両者は終始すれ違い出会うことなく、それ故またニヒリズムを超克し、善悪、恩讐の彼岸での「大乗遊戯」の相を描くことはできなかった。中里介山自身は『大菩薩峠』を「大乗小説」を標榜するも、その実「大衆小説」にとどまったであろう。
このホームページでは以下の断章を通して、「大乗遊戯」の世界の一例を示していきたい
1.ニーチェの蛇
2.ゴッホの蝶、御舟の蛾
3. 一遍の蝉
4. ディオニュソスのイルカ、一遍のイルカ
5.ヴァーグナー対ニーチェ、ニーチェ対ハイデッガー
11. 「セイレーンの物語」のアレゴリー
15.一遍の「遊戯三昧」の境地
16. 「法界に遊ぶ」一遍
17. 大乗遊戯の場・・・一遍の場合・・・
18.一遍上人の「大乗遊戯」の世界への憧憬
番外:ブログ https://habutyann.livedoor.blog/