余談

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エクセキアスの皿絵 ミュンヘン古代美術博物館蔵

ここで語られている「小舟の主の葡萄摘み人」こそ、ギリシア神話の酒の神ディオニュソスである。酒の神ディオニュソスは、熱狂の神、変貌の神、再生の神でもあった。ギリシア神話ではそのディオニュソスがエーゲ海のナクソス島に渡ろうとした時の話として、海賊たちに捕らわれたという話がある。すると、ディオニュソスは獅子に変身し、帆柱と櫂とを蛇に変え、船を葡萄の蔓で覆ったという。これに驚いた海賊たちは狂って海中に落ち、イルカに変身したという。ミュンヘン古代美術博物館蔵のエクセキアスの壺にはこの場面が描かれているともいわれている。先に引用した『ツァラトゥストラはかく語りき』の第三部「大いなる憬れ」で語られた光景は、このエクセキアスの壺に描かれた光景を想起せしめる。ここに描かれたイルカたちは、ディオニュソスの乗る船を囲み、ディオニュソスを讃えて、踊躍乱舞しているようにみえる。ディオニュソスの秘儀ではディオニュソスの女性信奉者のマイナスたちが踊り狂ったといわれているが、エクセキアスの壺に描かれたイルカたちはそのマイナスたちの化身であるかもしれない。





現在でもまれに瀬戸内海にイルカの出現することがあるという。伊予の或る漁師さんは、漁を終えて帰ろうとした時、イルカの群れが跳ねるように舟に並んで泳ぐのを見たという話をされていました。この漁師さんは篤い石鎚信仰の持ち主で、イルカの群れを石鎚大神の御遣いと信じて疑っていないそうで
す。

上人が浜沖の海鹿聴聞岩

『遊行上人縁起絵』(光明寺本)第4巻

ニーチェの著書ツァラトゥストラはかく語りき』の第三部「大いなる憬れ」でツァラトゥストラが己の魂に語り掛け、「ディオニュソス頌歌」を歌えといって、次のように語っている。

「おお、わが魂よ! 

――― すべての海がお前の憬れに傾聴するように鎮まるまで、お前は轟くような声で歌わざるをえないだろう。

――― 鎮まった憧れの海また海を超えて黄金色の奇蹟たる小舟が浮遊するまで、お前は轟くような声で歌わざるをえないだろう。この奇蹟の黄金の周りでは、すべての善きもの、悪しきもの、不思議なものが踊躍する。

大小多くの動物や、菫色の小道を走ることのできる軽く風変わりな足を持つすべてのものが踊躍する。―――

それらが目指すのは、黄金色の奇蹟、自由意志の小舟、そして小舟の主である。そしてこの小舟の主こそダイアモンドの葡萄摘みのナイフをもって待つ葡萄摘み人なのだーーー」、と。

 











日本でも『遊行上人縁起絵』に日本のエーゲ海(多島海)といわれる瀬戸内の海に多数のイルカが出現し、一遍の舟の周りで乱舞した話が載っている。それは正応元年の師走のことであった。伊予大三島の大山祗神社で念仏法楽を行じた一遍とその弟子たちは、そののち今治の大山祗神社の別宮へ船で向っていた。」その途上、「海鹿といふ大魚、数をしらず浪をたてゝ船の舳艫にはねをどりけり。すこしも人をおそるゝ事なく、半時許ありてうせにけり」という。一遍の舟の周りで「海鹿」が跳ね踊っている様子はまるで踊り念仏を踊っているかの様に見えたにちがいない。
ここで言われている「海鹿」とはイルカのことである。一遍とイルカとの出会いはこれがはじめてのことではなかった。 伝説によれば、一遍が未だ弟子を持たず独り九州に遊行の旅にでかけた時のことである。はじめて九州に降り立った速見ヶ浦(別府)で、一遍が「南無阿弥陀仏」と称えていると、イルカが岩にあがって一遍の称名に聞き入ったという。以来、速見ヶ浦は上人が浜とよばれ、イルカがあがった岩は海鹿聴聞岩と呼ばれている。上人が浜ではイルカが一遍の称える「南無阿弥陀仏」に聞き入ったが、来島海峡では一遍はイルカの踊る「南無阿弥陀仏」に見入り、イルカの踊る「南無阿弥陀仏」に魅入られたにちがいない。



ディオニュソスのイルカ、一遍のイルカ