目次に戻る

その極端なニヒリズムとしての永劫回帰の思想の超克の光景を描いているのが、『ツァラトゥストラはかく語りき』の第三部「幻影と謎」である。そこで記されているのは、極端なニヒリズムの象徴である「黒く重たい蛇」に喉の中へ這入り込まれ窒息して瀕死状態に陥った牧人が、蛇の頭を噛み切り、蛇の頭を遠くに吐き捨て、跳び上がったという光景であった。極端なニヒリズムを超克した牧人は、「もはや牧人ではなく、もはや人間ではなく、――――変容した者、円光に包まれ輝く者であり、笑ったのである! いまだかつてこの地上で彼が笑ったように笑った人間は誰一人としていなかった」という。極端なニヒリズムを超克した牧人が人間という形態から「円光に包まれ輝く者」への変態(metamorphose)というのである。その変態は生物学的な変態というよりも、まさにラファエロの描くキリストの変容(transfiguration)を髣髴させるような実存の宗教的な変態といえよう。 実存の深淵を愛したニーチェが狂おしくも憧れたのは、まさにそのような実存の変態であった。

 「深淵を愛するなら、つばさを持たねばならぬ・・・・・」『ディオニュソス頌歌』より)

『曙光』Nr.573の箴言は、「脱皮することができない蛇は滅びる。」という言葉に続いて、「自分の考えを変えることを妨げられた精神の持ち主たちは精神であることを止める。」と語られている。 

柔軟な精神の持ち主なら、自分の考えを変えることができ、精神を失うことがないかもしれない。しかし、それだけでは、蛇が脱皮して再生できても虚空へと飛翔することができない。それと同じように、考えを柔軟に変えることのできる精神の持ち主も、自ら自分の殻を破って精神の形態を変え、変態できなければ、虚空へと大きく飛翔することはできない。精神が自ら虚空を自由に飛び廻ることをなしうるためには、精神は自ら変態しなければならないのである。

『ツァラトゥストラはかく語りき』の序説が終わり、いよいよ教説が始まると、その冒頭で語られたのが「精神の三つの変態」についてであった。それによれば、「駱駝」によって喩えられる形態の「精神」は「獅子」によって喩えられる形態の「精神」へと変態し、さらに「子供」によって喩えられる「精神」へと変態しなければならないと語られている。「駱駝」は伝統的な価値体系を畏敬し重荷に耐える精神が、「獅子」は伝統的な価値体系に敵対する精神が、「子供」は新たなる価値創造の遊戯をする精神が、それぞれ喩えられている。しかし、伝統的な価値体系に敵対する「獅子」の精神は、単に伝統的な価値体系をニヒリスティックに破壊するだけでは「子供」の精神へと変態することはできない。極端なニヒリズムとしての永劫回帰の思想を超克しなければ、「子供」 の精神へと変態することはできないのである。

脱皮し変態した蝶や蝉は、翅をもち、虚空へと飛び立ち、虚空を自由に飛び廻ることができるようになる。これに対し、蛇は脱皮しても、相変わらず腹を使って地上を這いずり廻るより他に仕方がない。しかし、その蛇も鷲の首に巻き付くことで、大空高く舞い上がることができる。ツァラトゥストラはかく語りき』の序説の最後の部分に、そのような光景が記されている。明るい正午のことであった。ツァラトゥストラは、一羽の鳥の鋭い叫びを聞いた。彼が見上げる。「すると、見よ!一羽の鷲が大空を広い円環を描いていた。そして鷲には蛇が垂れ下がっていた。獲物のようにではなく、ガールフレンドのように。というのは、蛇は鷲の首のまわりに巻き付いていたからであるという(序、第十節)

ニーチェの有名な言葉に「脱皮することができない蛇は滅びる。」『曙光』Nr.573)という箴言がある。逆に言えば、脱皮を繰り返す蛇は、繰り返し、繰り返し再生し、永遠に生き続けることができるともいえよう。蝶や蝉などの昆虫は脱皮することで形態(morphe)を変えて変態(metamorphose)することができるが、蛇は脱皮しても前と同じ形態のままに留まる。脱皮しても変態することなく同じ形態へと回帰するという蛇の生態は、ヨーロッパでは、自分の尻尾を咥えた蛇の姿(ウーロボス)で形象化され、無限の円環運動、「永劫回帰」の象徴、「一即一切」の教義の象徴として描かれた。ニーチェも塒を巻く蛇の形態をその主著『ツァラトゥストラはかく語りき』で「永劫回帰」の象徴として用いている。

ニーチェの蛇

 ウーロボス(マルキアヌス古写本)  ギリシャ文字で「一即一切」と記されている



   鷲と蛇との闘争(トルコ、イスタンブール、グレートパレスモザイク博物館蔵)

 

鷲と蛇は、東ローマ時代のコンスタンチノープルの大宮殿のモザイク画にみられるように、普通は、鷲は蛇を獲物として捕らえ喰おうとし、それに対して蛇は鷲に巻き付いて締め上げ、激しく闘争している姿で描かれる。しかし、ツァラトゥストラが見たのは、恋人同士で睦み合うかのように、虚空で円を描いて飛ぶ鷲とその鷲の首に輪を成して巻いて付いている蛇であった。地上で塒を巻く蛇の形状で表わされるのは、永劫回帰の「黒く重たい」側面であるのに対して、虚空の中での鷲の円環運動と蛇の巻き付き輪で表わされるのは、永劫回帰の「澄んで軽やかな」側面といえよう。ツァラトゥストラは、このような鷲と蛇が睦み合う光景を目撃し、「どうかわたしの動物たちがわたしを導いてくれるように!」と語ったという。「かくしてツァラトゥストラの没落は始まった」という記述でもって『ツァラトゥストラはかく語りき』の序説は終わる。

      




蛇を絞め殺す幼いヘラクレス像
ローマのカピトリーニ美術館蔵






ラファエロ『キリストの変容』(バチカン美術館蔵)







* ニーチェの「変容論」については下記の二書を参照して頂きたい。

圓増治之著 『ニーチェ……解放されたプロメテウス……』(1990年刊、現在は、講談社学芸アーカイブ、創文社オンデマンド叢 書に所収されている。『ニーチェ ……解放されたプロメテウス……』 講談社学芸アーカイブ
圓増治之著 『遊戯する生への変容……ニーチェの場合と良寛の場合……』(晃洋書房2008年刊)