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漢詩「生涯懶立身」屏風 良寛の書と伝えられている。『良寛曼荼羅』名著刊行会刊

良寛の草書は円転滑脱であるが、滑脱がすぎたのであろうか、この書には「閒」の字が脱字している。



生涯、身を立つるに懶く

騰々として天真に任す

嚢中、三升の米

爐邊、一束の薪

誰か問はん、迷悟の跡

何ぞ知らん、名利の塵

夜雨、草庵の裡

雙脚を等閒に伸ばす、



騰々として天真に任せ、雙脚を等閒に伸ばす」のもまた良寛にとって「ひとり遊び」の一つであったのであろう。

良寛が草庵に閉じ籠って「ひとり遊び」で自受用三昧の暮らしだけにとどまっていたのであったなら、良寛は「小乗遊戯」の世界に遊ぶにとどまったといえるかもしれない。しかし、もちろん良寛は「ひとり遊び」に閉じ籠ったわけではなかった。「春さり来れば」、草庵から里に托鉢に出、人と交わったし、子供らと毬つきに共に興じたであろう。お盆を迎えれば、里人たちと共に踊りに興じたこともあったであろう。貞心尼が訪れて来れば、彼女と贈答歌を交わし、共に興じたであろう。このように良寛は「ひと遊び」の「小乗遊戯」を遊んだだけでなく、周りの人たちと共歓しつつ「大乗遊戯」を遊んだのであった。ただ、「ひとり遊びぞ我はまされる」という良寛は、その「大乗遊戯」の輪を積極的に広げていくことはなかったのであった。その点、良寛は内心忸怩たりところがあったのではないだろうか。



* 良寛の「騰々任天真」の遊びの境地については下記の二書を参照して頂きたい。

圓増治之著 『良寛随想、風のこころ』(考古堂1994年刊)

圓増治之著  『良寛、この日この生』(考古堂2005年刊










このように子供らに交じり毬つき遊びをしたり、人と共に踊ったり、人と共にする遊戯を謳歌する良寛であったが、より一層自分の性に合っているのは「ひとり遊び」だとして次のように詠っている、

世の中にまじらぬとにはあらねどもひとり遊びぞ我はまされる

この歌は良寛自筆の自画像といわれる図に讃として添えている。行燈の蔭で袖なしを着て、頭巾をかぶり、膝に書物を広げて読んでいるところが描かれている。行燈が逆遠近法で描かれており、良寛の視線が注がれている書物へと、この図を見ているもの者の視線も導かれるように描かれている。書物に眼を落す良寛の口はわずかに開かれ、口に出して詠んでいるようにもみえる。自作の和歌でも詠んでいるのだろうか。戸外で子供たちと共に毬つきをしたり、人と共に踊ったりするのもいいが、草庵に籠り独りしずかに時を過ごすのがなにより自分の性に合っているというのであった。

図では「ひとり遊び」として描かれているのは、読書している姿であるが、次に挙げた漢詩もまた良寛のが「ひとり遊び」する姿を詠んだもといえよう。


「手まり上人」とも称された良寛は毬つきを好んでしたという。そのことを聞いていた弟子の貞心尼は、「これぞこの仏の道にあそびつつつくやつきせぬみのりなるらむ」と詠んで、良寛に贈ったところ、良寛は「つきてみよひふみよいむなやここのとを十とおさめてまたはじまるを」と返歌したという。貞心尼は、無心に毬つきをする良寛が悟りの境地で遊戯三昧に遊んでいる姿であるかのような思いがして、そうではないでしょうかと、このように詠ったのであった。これ対して、そうだとも、そうでないととも応えず、さあついてみなさい、一、二、三・・・十と、そして十まで数えて、また繰り返し、繰り返し一から始めて、飽くことなくついてみなさい、と。この良寛の誘いに貞心尼に応じて良寛と共に毬つき遊びに興じたにちがいない。

 良寛は子どもらとも共によく毬つき遊び、歌に詠んでいる。

例えば、貞心尼編の歌集『蓮の露』に良寛の次のような長歌が載っている

冬ごもり 春さり来れば

飯乞ふと 草の庵を

立ち出でて 里にい行けば

里子供 今を春べと

たまほこの 道のちまたに

手毬つく われも交りて

その中に ひふみよいむな

汝がつけば 吾はうたひ

吾が唄へば 汝はつく

つきて唄ひて

霞立つ 永き春日を

暮らしつるかも

(反歌) 霞立つ永き春日を子供らと手毬つきつつこの日暮らしつ

 

毬つき以外でも、踊りでも、良寛は共に踊ろうと人を誘い、詠っている。例えば、
風はきよし月はさやけしいざともにをどり明かさむ老のなごりに
いざ歌へ我れ立ち舞はんぬば玉の今宵の月にいぬらるべしや



良寛の「ひとり遊び」