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                 「市場=世界」……神が死んでしまった世界


    
 我々がそこで生きている世界は、「市場(market)」として開かれている。市場に於いてはすべてのものは「商品」として現象する。そこでは人間の労働によって生産された物質的生産物だけでなく、「情報」も「医療」も「介護」も「教育」も「旅行」をはじめとする「遊び」も商品化され、売りに出される。人間が生産した財だけではない。人間の手が加わらない「自然」も観光の「商品」として売りに出される。労働力としての人間もまた商品として、「売り手市場」の場合には高い価格で、あるいは「買い手市場」の場合には低い価格で現象している。さらに売買を媒介する貨幣ですら「金融市場」で商品として売買され、時として「金融市場」はマネーゲームの場となってしまっている。

                  
            フランクフルト金融市場


  さて、「商品」が「商品」として「市場」に現象する限り、それらはすべて「価格」のもとに現象する。しかるに、ニーチェの著書ツァラトゥストラは斯く語りき』でツァラトゥストラが語っているように、「すべての価格をもつところのものは、あまり価値がない」のである。逆に言えば、真に価値のあるところのものは、価格がない。価格がつけられない。命に値段をつけられようか。愛に値段をがつけられようか。翻って言えば、「市場=世界」では、すべてのものから命を、愛を、そしてその他、他のものとは交換不可能な掛け替えのない価値を剥奪することによって、すべてのものを商品として、効率的に通用させ、流通させることができるのである。例えば、自然から命や愛を剥奪することで、自然を単なる天然資源として搾取し、それ自身を商品として、あるいはさまざまな商品を生産するための原料としての商品として、市場に流通させることができるのである。



 

 ニーチェは、著書『悦ばしき学問』の
125番のアフォリズムで、古代ギリシアで贋金を造ったキュニコス派の哲学者ディオゲネスを連想させる「狂気の人」を登場させ「神は死んだ」と宣言させている。その狂気の人はディオゲネスと同じように白昼にランタンを点けて「市場」に現れたが、ディオゲネスが「人間を探している」と叫んだのに対して、ニーチェの「狂気の人」は「神を探している」と叫んでいる。この叫びを聞いた神を信じない人たちが集まって来て彼に嘲笑を浴びせると、彼はさらに叫んだ。「我々が神を殺したのだ。神は死んだ」と。有りとし有りたるものに命を授け、生きとし生けるものに愛を授けてきた神は、「市場」と化した世界の中では、もはやその力を喪失し、死んでしまっている。「古い神は死んだ」というのであった。

      
         「人間を探すディオゲネス」(J.H.W.ティシュバイン画
)






ニーチェは、「新たな神」の誕生に狂おしくも憬れ 狂気の淵で自らが古代ギリシアの神、ディオニュソス神として変容するのを夢見たのではないだろうか。ニーチェは、狂気の淵に陥った1889年に恩師ブルックハルトに宛てた書簡に「ディオニュソス」と署名している。

「ディオニュソス」を自称するニーチェが狂っているとしたら、マネーゲームに狂奔する「市場」の人間はどうだろうか。






   
        1889年」1月4日付ヤーコプ・ブルクハルト宛てのニーチェの書簡