第二次世界大戦中ドイツからアメリカに亡命していたフランクフルト学派の泰斗ホルクハイマーとアドルノは共同で『啓蒙の弁証法』を執筆し、これを戦後の1947年に刊行した。
そこでは、人間の理性が、主体となって「外なる自然」と「内なる自然」を客体化し、しだいに「外なる自然」と「内なる自然」に対する支配を強化していく啓蒙の過程のなかで、人間理性は道具化していって、かえって人間理性が主体性を喪失していくという弁証法的過程を「啓蒙の弁証法」として究明したのであった。
『啓蒙の弁証法』を論じるにあたり、著者はまず、ホメロスの叙事詩『オデュッセイア』を採り上げている。その際、著者は『オデュッセイア』のなかでも特に「セイレーンの物語に神話と合理的労働との絡まり合いが含まれ」ており、「啓蒙の弁証法についての証言を与えている」と述べている。
『オデュッセイア』は、トロイア戦争に参加していたイタケーの王オデュッセウスが、勝利の後故郷に帰還する途中に起きた幾多の冒険を語った叙事詩である。「セイレーンの物語」とは、そのオデュッセウスの冒険譚のなかのエピソードのひとつである。ギリシア神話ではセイレーンは、上半身が人間の女性で、下半身は鳥の姿をした海の怪物で、海の岩礁から美しい歌声で航行中の人を誘い寄せ、殺したという。オデュッセウスはセイレーンの島を通過する時、部下の耳を蠟で塞ぎ、セイレーンの歌を聞こえないようにし、自身はマストに縛り付けさせて歌を聴いても、セイレーンの歌声に誘惑されて、座礁することなく無事通過することができたという。
ホメロスの『オデュッセイア』では、オデュッセウスが通過したその後のセイレーンについては語られていないが、神話ではセイレーンは、その歌を聞いた人間が生き残った時には死ぬ運命となっていたため、海に身を投げて死んだという。
紀元前5世紀の壺絵にはその場面が描かれている。オデュッセウスは耳を塞がれた部下の漕ぎ手たちに言葉で指示しても漕ぎ手たちには聞こえないし、マストに縛られていてはジェスチャーによって漕ぎ手たちに指示することもできない。オデュッセウスは、部下の舵取り人(kybernētēs)に目配せの信号によって指示し、舵取り人は漕ぎ手たちに身振りの信号によって指示をだしたのであった。このような信号による指示系統はすでにサイバネティック(cybernetic)なシステムであったといえよう。このようなサイバネティックなシステムの内に於いては、セイレーンはその呪術的力を喪失し、死ぬ運命にあったのである。
第二次世界大戦下で執筆された『啓蒙の弁証法』では「神話と合理的労働との絡まり合い」を含んでいるとされた「セイレーンの物語」には、商品経済のシステムが地球全体を包含するに至った21世紀の今日に於いて見れば、神話と合理的労働との絡み合いのみならず、神話と商品経済のサイバネティックなシステムとの絡み合いが含まれていると見ることができるだろう。
今日、商品経済のサイバネティックな合理的システムの内部からは呪術的な力は一掃されていても、商品経済のサイバネティックな合理的システムは全体としては経済発展に向けて煽り立てる呪術的美声に誘われて、そこを目指して盲目的に舵を取って進んでいるといえるのではないだろうか。
それでは、経済発展という呪縛から我々を解き放ってくれるものがあるとしたら、それは何であろうか。科学であろうか。商品経済のサイバネティックなシステムに組み込まれた現存の科学ではそれは不可能である。生の観点から現存の科学を徹底的に批判することを通して、生の根底にまで遡源し、そこから現存の科学とは別のオルターナティヴな科学が生まれ出てくることを期待するしかないのではないだろうか。
* 「批判的科学論」についてはH.ロムバッハ編『科学論』(圓増他訳、創文社、現在絶版、古書にて入手可)を参照してほしい。
* オルターナティヴな人文科学の方法論については愛媛大学人文学会編『人文学論叢』第10号29頁〜39頁「人文科学の方法…『実証主義論争』を通して考える」を参照してほしい。