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ヨーロッパでは古くから人々に「死への先駆」を促す警句として「メメント・モリ(死を憶えよ)」というラテン語の句があった。「メメント・モリ」をモチーフとした絵画も数多く描かれてきた。その際ふつう死の象徴として髑髏が用いられた。まさに「メメント・モリ」をモチーフとして描かれた絵画では死の象徴として用いられたのは、すでに死んでしまった姿、「もはや生存していない」姿であった。私たちはその一例を16世紀ドイツの画家B.べーハム(Barthel Beham1502~1540)の『死せる幼児と四つの髑髏』に見ることができる。四つの髑髏のそばで眠る幼児は、ハイデッガーが『有と時』で引用した「人間は生をうけるやいなや、人間はすでに死ぬるに充分な歳になっている」という言葉を表しているかのようにも見える。その幼児の上には「死はすべてを等しうす(mors omnia aequat)」とラテン語の箴言が記されている。現世の生活は王侯、貴族、庶民で大きく異なっても、死はすべての人に一様に訪れ、誰もが等しく髑髏になってしまう。赤子も、老人もすべての人は等しく確実に死ぬ。
ハイデッガーは覚悟をもって死へ先駆して死の可能性を自分の存在可能の内へと手繰り込んでしまって生きることで、世間のせわしない瑣事に煩わされ束縛された日常の生き方から解放され、本来的な生き方ができると見ている。死へ先駆し、死を覚悟することで、かえって生の可能性が広く開かれ、本来的な生き方が可能となるというのである。この場合「死」について、ハイデッガーは、それは「もはや生存しえないという可能性」であり、「最も極端な可能性」であるという。そして、生きている限り誰もがいつかは確かに死ぬから、「死」は確実な可能性であるという。しかし、「もはや生存しえないという可能性」としての死の手前には、実に多様な死にゆく過程(dying process)がある。緩慢に死んでいく場合もあれば、突然に死ぬこともある。若くして死んでいく場合もあれば、老残の身をさらしながら死んでいく場合もある。安らかに死んでいく場合もあれば、もだえ苦しんで死んでいく場合もある。虚しく死んでいく場合もあれば、死に花を咲かせて死んでいく場合もある。多くの人に惜しまれつつ死んでいく場合もあれば、ひとり寂しく死んでいく場合もある。恨みを遺して死んでいく場合もあれば、感謝しながら死んでいく場合もある・・・・等々、枚挙にいとまがない。「もはや生存しえないという可能性」としての死へ一足飛びに先駆することは、このように多様な死にゆく過程の様相の違いを無視することになる。
翻って言えば、死にゆく過程を飛び越えて「死へと先駆する」ことによって、現に生きている人間は、総じて生存全体を、何か卓抜な特定の可能性に、賭けて生きる覚悟ができるといえるかもしれない。ハイデッガーは、「死への先駆のみがあらゆる偶然的な『仮初め』の可能性を追い払う」と述べている。人間はその都度絶えず自己の様々な可能性を先駆的に先取りしながら生きているが、しかしその様々な可能性の先駆のさらに先の先にある最も極端な可能性たる死へと先駆することで、その都度先駆的に先取された多様な可能性はすべて偶然的にして「仮初め」の可能性として追い払われるのである。雑多な可能性が一掃されてしまえば、何か卓抜な可能性が指示されるなら、それが神によって指示されるにせよ、あるいは国家によって指示されるにせよ、さらには自分自身によって指示されにせよ、その他何が指示するにせよ、とにかくその特定の可能性のために生活全体をも犠牲にすることが可能となるのである。
しかし、その卓抜なる可能性を指示していたものが、その指示する力を突然失ったとした場合、どうなるか。そこに出現するのは、生きる目的を失い絶望した生である。そのような状況に於いてなによりも想い起すべきは、生の終末たる死ではなく、生の誕生の瞬間であろう。
では、生の誕生の瞬間とは如何なる瞬間であろう。仏教では、『雑阿含経』巻第一五などで、人間に生まれる瞬間について、次のような比喩譚を使って語られている。まだ、陸地が出現せず大海だけが限りなく広がっている太古の話である。大海の底に潜み百年に一度海上に頭を出す寿命無量の盲目の亀がいる。一方海上には一つの穴の空いた浮木が風の吹くままに西、東と漂っている。私たちが人間に生まれるのは、この亀が浮かび上がった時に偶々その頭がこの穴に出遇うように偶然のことだという。いや、偶然の瞬間に生まれるのは、人間だけではない。そもそも総じて無限の宇宙空間のうちにあって、生命を宿す星、この地球が誕生したのも偶然に偶然が重なった結果だともいえよう。「Memento vivere(メメント・ヴィヴェレ)」(生を憶えよ)という警句も、偶然に偶然を重ね生まれてきた生に想いを致しながら生きよと命じているとも解釈できよう。たとい将来に何の希望を見ることのできない絶望の大海にあっても、生の誕生の瞬間に想いを致して生きていくなら、人は偶然の申し子として偶然の生を愛おしみ、偶然と戯れ、生きていくことができるだろう。