目次に戻る

ニーチェの死

 ニーチェの『ツァラトゥストラは斯く語りき』のなかで、ツァラトゥストラは、『自由な死について』で「多くの人は死ぬのが遅すぎるし、幾人かの人は死ぬのが早すぎる」と述べた上で、「然るべき時に死ね」KSA,Bd.4,S.93)と説いている。

 「然るべき時に死ね」というツァラトゥストラの勧告は、「然るべき時に、然るべき目的のために、然るべきものを、然るべき仕方にしたがって」行為せよと説くアリストテレスの中庸説を、私たちに想起させるだろう。アリストテレスによれば、例えば、恐れについていえば、過度に恐れて行為すると、臆病な行為となるが、一方恐れることが不足すると、無謀な行為をすることになる。人は然るべき時に、然るべき目的のために、然るべきものを、然るべき仕方で恐れて行為する時、その人は勇気があるというのである。「勇気」は、「恐れ」の存在の量という観点からいえば、その過度と不足の中間に位置するといえるが、「善さ」という観点からいえば、「頂極」であるといわれる(『ニコマコス倫理学』)。逆に言えば、然るべき時に、且つ然るべき目的のために、且つ然るべきものを、且つ然るべき仕方でという「中庸」において行われる行為は、最善の行為であるということができる。

 それでは、「然るべき時に死ね」とツァラトゥストラが言う場合の「然るべき時」とは一体如何なる時であろうか。

 『ツァラトゥストラは斯く語りき』第1部の最後から二番目の教説『自由な死について』の冒頭で「然るべき時に死ね」と説いたツァラトゥストラは続いて、「もちろん、どうして決して然るべき時に生きることのない者がいつの日か然るべき時に死ぬというようなことができようか? そのような者はそもそも生まれてこなかったほうがよかったのに」、という。ツァラトゥストラにしたがえば、生まれてこなかったほうがよかったといわれるのは、然るべき時に生きることのない者についてである。最善なことは、生まれてこなかったことではなく、然るべき時に死ぬことだというのである。 

 その意味でさし当たって「然るべき時に死ぬ」という場合の「然るべき時」とは、生が然るべき時に生き、みずからの人生を完成させる時、アリストテレスの言葉を借りれば、人生の「頂極」といえるであろう。ツァラトゥストラは語る、「自分の諸々の真理と勝利に対してもふさわしくないほど歳をとり過ぎている人が多い」と。したがって、「然るべき時」に勝利の栄誉から決別する技を磨く必要があるという。諸々の勝利からそれぞれ「然るべき時」に決別していった果てに、最終的には人生の「頂極」において人生と決別すべきだということになるだろう。

 それではその決別は一体どのように行われるとニーチェは言っているのだろう。『偶像の黄昏』の「或る反時代的な者の徘徊」の第三六番で「医者たちのための道徳」と題するアフォリズムのなかでニーチェは、「自発的に選択される場合の死、然るべき時に、晴やかに喜びをもって、子供たちや見届け人たちの真只中で遂行される死ーーーこのような場合、別れを告げるまさにその当人がなお現にそこにいるという真の離別がなお可能である、また同様に、達成され意志された事柄の真の評価が、すなわち生の総決算(eine Summirung des Lebens)が可能である。」と言っている。

  ニーチェの「力への意志」の立場からみれば、生の意志の内容としての「死」は、外から、向こうから時ならず不意に生に襲いかかってくるもの、したがって生にとって疎々しく不気味なものではない。ニーチェにとって死は生が「然るべき時に」遂行すべきことなのである。しかも、「晴やかに喜びをもって、子供たちや看取りの人たちの真只中で遂行される」べきなのである。つまり死は生の真只中に於いて生によって、生の自由な意志によって「然るべき時に」遂行されて然るべきであるということになる。「然るべき時に」死ねなかった場合、その人は生きているとしても、死に損ない生き損なってただ便便と命永らえているだけのことにすぎないのである。「然るべき時に」死ぬことこそ、ニーチェにとって、彼が「価値評価からの、建設的、排除的、殲滅的思惟の仕方としての正義。すなわち、生自身の最高の代表者。」というような意味での「正義」である。或る人が「然るべき時に」死ぬなら、まさにその死の時にこそ、その人の生そのものが全体として集約されて代表的に現われ出ているといえよう。

 したがって、ニーチェは死を自発的に選択すべしと説いたからといって、ニーチェはなにも所謂「自殺」を勧めているわけではない。何処の世界に、「自殺」が「晴やかに喜びをもって、子供たちや看取りの人たちの真只中で遂行される」というようなことがあろうか。ニーチェが説き奨めているのは、いわゆる「安楽死」でもなければ、通常言われるような意味での「自殺」でもない。そうではなく、明らかにそれは「生の総決算」としての死である。


この場合、「生の総決算(
eine Summirung des Lebens)」の「生の( des Lebens)」という属格は、目的語的な属格(genitivus objectivus) にして且つ同時に主語的な属格(genitivus subjectivus)である。すなわち、「生の総決算」とは、生が生を総決算するということを意味する。なぜなら、生を総決算するのは生を措いてほかになにもない。何を評価するにせよ、そもそも総じて「評価する」のは「生」である。したがって、「生の総決算」としての死は、あくまで生の活動の一つ、しかも「生の総決算」ということで評価されるのが生全体である限り、それは優れて生の一つの活動であり、いうなれば生が生を自分で完成へともたらすことなのである。「生の総決算」として「晴やかに喜びをもって、子供たちや看取りの人たちの真只中で遂行される」死、それを私たちは、弟子たちが見守るなか自ら毒杯を仰ぎ死んで逝ったソクラテスの死にみることができるだろう。



ニーチェが死んだのは、19世紀の幕がまさに降りはじめようとしていた1900年8月25日のことであった。その十年余り前の1889年ニーチェは滞在先のイタリアのトリノのカルロ・アルベルト広場で昏倒し、精神に異常をきたした。その後数日ニーチェは、友人たちに意味不明の手紙を送り続けた。その一つをニーチェから受けとってバーゼル大学時代の同僚オーファーベックは、驚いてトリノに駆けつけ、一旦ニーチェをバーゼルに連れ帰った。さらに母に引き取られドイツに戻ったニーチェは、以後母親の看護のもとで生き続けた。オイディプスの場合、視力を失った彼に寄り添ったのは娘アンティゴネであったのに対して、ニーチェの場合、正気を失った彼に寄り添ったのは年老いた母であった。8年の看護の後、1897年に母は死んだ。その後ニーチェは頑迷な妹のエリザベートの看護のもとで生き延び、3年の後に死んでいった。

 エリザベートは兄ニーチェの看病をしただけでなく、ニーチェの遺稿や書簡を蒐集、編纂し、全集や書簡集を出版した。その際、エリザベートは遺稿を恣意的に取捨選択したり、遺稿や書簡に改竄を加えたりして、編纂したのであった。さらにエリザベートは、折から台頭してきたナチスにニーチェをさかんに売り込んだ。その効あって、ヒットラーは数回ワイマールの「ニーチェアルヒーフ」を訪問した。ナチス時代にはニーチェの思想はナチズムの都合のいいように歪曲され、政治利用されることになった。その意味でエリザベートは、唯一遺されたニーチェの肉親とはいえ、ニーチェの遺志を正当に相続したとはとうてい言えない。その限りではニーチェは死に損なったといえるかもしれない

 しかし、ニーチェの遺産、遺志を相続するのは、血縁の遺族だけとは限らない。ニーチェが然るべき時に死ぬことに成功したか、失敗したか、それは、今後私たちがどのようにニーチェの遺産、遺志を相続していくか、それによって、決まってくるであろう。
































     ニーチェの哲学思想について下記の本を参照されたい。
   圓増治之著
 『ニーチェ・・・・解放されたプロメテウス・・・・』(1990年刊、講談社学芸アーカイブ、創文社オンデマンド叢書所収)