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ニーチェの生の時熟

私たちはさまざまな行為を意志的に選択しながら日々を生きている。意識的に選択を行っている場合もあるし、無意識に行っている場合もある。昼食にラーメンを食べようか、そばにしようか、という日常茶飯な選択から、彼女にプロポーズしようか、しないでおこうか、というような人生の大事にいたるまで、日々いろいろと思案しながら人生を生きている。このような意志的な活動の過程は常識的には、O点で分かれるMOという一本の道で進み、O点からはOXOY二つの方向に道が開かれているというように図示されることがよくある。 MOを通過した私はO点に達し、そこから私はOXという道とOYという道が開かれている。自由意志論者は、そこで私はOXという道を選んでOXの道を進んだとしても、私はYを選ぶことも可能であったと主張する。これに対して、決定論者は、その場合私がXを選ぶ理由が私にはあってMOXという道をたどったのだ。それでもなお私がYを選ぶ可能性があったというのなら、それは私がXを選んだ理由を忘れているからだ、と主張する。

 しかし、ベルグソン(『時間と自由』白水社、167頁)によれば、この図の線が記号としてあらわすものは、流れつつある時間ではなく、流れ去った時間である。ベルグソンは、「もしも私が地図上に描かれた道を眼で追うとすれば、後戻りしてところどころで二つに分かれているかどうか捜してみても何の不都合もない。しかし時間はふたたびたどれる線ではない」、と言う。私たちは流れつつある時間の中でXを選ぶべきか、Yを選ぶべきか、たえず思案しながら、生きている。しかし、決定論者も自由意志論者も共に、この思案を空間内での動揺の形で思い浮かべているのである。しかし、ベルグソンによれば、実は、思案はそのような機械的な動揺ではなく、「動的進行なのであって、そこでは自我も諸動機そのものも、ほんものの生物のように、不断の生成の中にあるのだ」という。

それでは「機械的な動揺」と「動的な進行」としての「思案」とはどのように異なるのだろうか。先に挙げた彼女にプロポーズしようか、否かを選択する場合を例にして考えてみよう。

 彼女の容姿の美しさに惹かれる一方で彼女のきつい性格にためらいを感じて動揺するが、結局決断して彼女の容姿の美しさをとってプロポーズしたような場合、ベルグソンにしたがえば、機械的に動揺しただけで、思案したということにはならないということになるだろう。

 これに対して「動的な進行」としての「思案」はどのようなプロセスを辿るのであろうか。彼女は、容姿は美しく、その容姿に私は一見して強く惹かれた。しかし、彼女と付き合ってみると彼女と話をしている時彼女はしばしば苛々することがあった。その時の彼女の表情は険しく、私の好みではない。しかし彼女とじっくりと話してみると、彼女が苛々していたのは、彼女の生まれつきの性格のせいではなく、彼女の仕事がきついためだとわかった。その一方で彼女の仕事は社会的に大きな意味があるのもよくわかっていた。彼女がその仕事を続けていけるよう精神的な支えになってあげたい。最終的にそういう動機で彼女にプロポーズするなら、思案のプロセスを経て私の「自我」も大きく成長し、最後にはプロポーズという行動が、ベルグソンの言葉を借りるならば、自由行動として「熟れすぎた果実のように」そこから落ちてくるということになるだろう。
人生の個人的な問題を前にしての決断ばかりではなく、歴史的課題を背負った者の大いなる歴史的決断もまた同じように「熟れすぎた」果実が落ちてくるように、下されるといえるのではないだろうか。

新たな価値の創造という歴史的課題を回避することなく担おうとする人間についてニーチェは次のように語っている、

「多くの場合そのような運命の人間たちには、かつて自分が決して『意志した』のではないことを為さざるをえなかったようなあの救済の時が、すなわちあの成熟の秋の時が訪れたであった。ーーーーそして彼らがそれまで最も恐れていた行為も、自分の意のままにならない行為として、すなわちほとんど賜物として、易々と求めずして木から彼らのもとに熟し落ちたのであった。」(Bd.11,S.613

新たな価値を創造するという行為は意志してできることではない。時季が来れば求めずして易々と為すことができると、ここでニーチェは言う。誰でも時季が来るのを待ってさえおればいいいかといえば、そうではない。ここではニーチェは求めずして新たな価値を創造するのは「宿命の人間たち」だと言っている。ここでいう「宿命の人間たち」について、また別の遺稿でニーチェは、「運命そのものである人間たち、すなわち自分自身を担うことによって運命を担う人間たち、あらゆる種類の英雄的な重荷の担い手たち」(Bd.13,S.15)ともいっている。言い換えれば、運命の人間たちは、ヨーロッパ人の、延いては人類の運命を担って自分の人生を生きる人間たちともいえよう。ニーチェはその自伝的遺作『この人を見よ』の最終章のタイトルとして「なぜ私は一個の運命であるのか」と記されている。つまり、ニーチェは自分こそ優れて「運命の人間」であると言っているのである。

『この人を見よ』の最終章「なぜ私は一個の運命であるのか」で運命の重荷を担って生きる英雄的人間について次のように語っている。

「人間と成ったこのような運命についての定式的言葉を望むか?ーーーそれは私のツァラトゥストラのなかにある

ーーーー善と悪において創造者たらんと意志する者は、まず破壊者となって諸々の価値を打ち砕かなければならない。

かくして最高の悪は最高の善に属する。だがこのような善こそ創造的な善なのだ。」

ここでニーチェは新たな価値を創造するためには、まず従来の諸価値を打ち砕き、自由を獲得しなければならないというのである。しかし、従来の諸価値と闘っていくためには、これら従来の超越的な諸価値によって導かれ、支えられてきた生を自ら超克していかなければならなかった。そして遂に従来の超越的な諸価値との闘いに最終的に勝利した時、その勝利を言祝ぎ口から出るのは、それまで生きてきた自分の生全体に対し「然り」という言葉であった。この場合の生に対して「然りと言う」決断もそれまでの人生から、ベルグソンのいうように「熟れすぎた果実」が落ちるように、下されたのであった。ただし、ニーチェの場合それは、生に対する否定と肯定、二つの選択肢の間で、ベルグソンの言うように思案し、躊躇いながら生きて、成熟して下された決断ではない。ニーチェの生に対して「然りと言う」決断は、運命を担い、これまでの生の条件となってきた従来の超越的な諸価値と自己超克的に闘い生き抜いて成熟した生がみずからに下した決断であった。

従来の超越的な諸価値を打ち倒した生によって「然り」と肯定されるところの生は、もはや超越的な諸価値を自分の頭上に戴くことのない生、言い換えれば、超越的な諸価値によって何も付け加えられることも何も差し引かれることもない有りのままの生である。ニーチェは生に根源的に属する最も恐ろしい生の固有性、最もいかがわしい固有性も差し引くことなく、生の全体的性格に対して恍惚として「然りという」(Bd.13,S.224)のであった。生の全体的性格に恍惚として「然りという」ことに於いて、その生は永遠に自己創造と自己破壊を繰り返すディオニュソス的世界の世界=遊戯のうちに投げ込まれ、その生も創造の遊戯を行う。まさに、「創造の遊戯のためには、聖なる肯定が必要だ」といわれるように「生に対して然りという」ことによってはじめて新しい価値を創造することが可能となるのであった。「生に対して然りという」ことによって、生は「子ども」に譬えられうるべき形態へと変態するとニーチェはいう。「子どもは無邪気そのものであり、忘却である」という。生が生全体を無条件に肯定する時、はじめてその生は、遊ぶ子どものように、時を忘れ、我を忘れて、新しい価値を創造することができるようになり、ニヒリズムを超克できたということができるだろう。

それでは、ニーチェの生が熟した果実のように時熟したのは何時だろうか。

ニーチェは最晩年の一八八八年に記された『この人を見よ』の本文の前書き草稿で、自分の生涯について語るにあたって、次のように述べている。

「そこでは、すべてのものが熟するのであって、熟れて褐色になるのはぶとうだけではない、この完全なる日に於いて、まさしく太陽の眼光が私の人生の上に降り注いだ。私は来し方を振り返って見た、私は行く末へと眼を向けて見た、私はかくも多くの、かくも善きものを一挙に見たことはなかった。私が四十四年目の年を今日葬ったのは理由のないことではない。私にはそれを葬る必要があったのであるーーーこの年に生の有りしものはすでに救われていて、不滅となっている。すべての価値の価値転換、ディオニュソス・ディテュランポス、そして気晴らしとして、偶像の黄昏ーーーすべてはこの年の、しかもその最後の三ヶ月の贈り物であった! どうして私は私の全人生に対して感謝せずにおられようか? それでは、私は私の人生を私に対して物語ろう。」

ここで言われている「今日」とは、ニーチェ44歳の誕生日1888年10月15日のことである。ニーチェは自分が誕生した44年後の同じ日に生が熟し、今また生まれ変わったというのであった。

44歳の誕生日に時満ち熟し、再誕したニーチェは、ヨーロッパの歴史の敷居の上で、双頭のヤヌス神のように立ち、来し方に偶像の黄昏を、行く末にディオニュソス的創造の曙光を眺めていたにちがいない


ニーチェの哲学思想について下記の本を参照されたい。

圓増治之著 『ニーチェ……解放されたプロメテウス……』1990年刊、講談社学芸アーカイブ、創文社オンデマンド叢書所収)